のぽぽん にき日記〜Live Comfortably(気楽に生きる)〜

お気楽なのんきながんばらない日常をのんびりつづっています♪

1.17

にきです。

いつもは、ぼんやり、のぽぽーんと
綴っていますが、このタイトルだと
少し気持ちが沈みます…。

おつきあいくださる方、
ありがとうございます。

あの日から25年です。
必死に背中におぶった娘は26歳。
2年前に結婚して普通に暮らしています。
だっこした息子は28歳。
社会人になって独身を楽しんでいます。

ふたりを抱えて、瓦礫まみれの道なき道を
とにかくどこか安全だと思える場所へと
一歩一歩踏みしめたその下には、
もしかすると倒壊した家の下敷きになった
人たちがいたのかもしれない…と、
今でも考えてしまいます。。。

想定外の非常事態が起きたとき、
人間は普段無意識にしている行動しか
できないのだと、あのとき知らされました。

自宅から実家は、わずか徒歩10分程度。
ベビーカーを押して、いつも通る道しか
歩けなかった、いや、思いつかなかった。

火の手が上がった方向にある実家が
とても気になりながらも、結局
たどり着くことはできませんでした。

瓦礫に埋まりすぎた道を歩くことが
できなかったのです。
仕方なく、自宅と実家のほぼ中間点にある
公園で、明るくなるのを待ちました。

待っている間に、近所の方に手伝って頂き
娘を背負い直し、貸してくださった毛布に
息子をくるみ、とても、とても不安でした。
不安…いったい何が起こっているのか、
あまりのことに思考が止まり、状況を
飲み込むことが全くできませんでした。。。

夜が明け、明るくなってはじめて、
道がたったの1本ではないことに気づき、
迂回すれば実家に行ける!と
また、息子を抱きかかえて実家への道を
歩いている途中に小学校があり、
その通用門の前で、同じく逃げてきた母と
出会うことができました。

けっして、
仲の良い母子ではありませんでしたが
このときばかりは、母の顔を見て、
涙が溢れました。

実家が崩れたことを教えられ、
そのまま小学校の校庭でとどまりました。
次々と避難してくる人で校庭が
埋まってきたころ、学校の先生が
やってきて、校内を開放してくださいました。

自分たちは、確か、音楽室。
公園でお借りしたままの毛布を
床に敷き、子どもを寝かせて、
少し気持ちが落ち着いたのでしょうか、
子どもに何か食べさせるものを、と
自宅に戻ると、四方の外壁は、すべて
崩れ落ちた自宅アパートの姿。

なんとか立っている柱もあちこちに
ヒビが入っていて、たぶん、子どもに
食べ物を!の意識がなければ、
絶対に中には踏みいらないだろう自宅の中へ

なのに、そういうときに限って、
何も買い置きがない!!

その日、本当は、娘の1歳半検診で
出かけたついでに買い物に行こうって
考えてたんですね…。
そんな日常はあっと言う間に消え去ったのです。

我が家は実家も含めて、人間には
ほぼ被害がなく、逃げ仰せたのですが
実家で飼っていたマルチーズのチャチャの
行方がわからず。動物やもの、きっと
とっさに逃げてるよ、と言い聞かせていました。

実家は、みごとにぺっちゃんこで
よく、これで生きていたな、と
チャチャを探しに実家へ行ったときに
うちの両親は、強運の持ち主やな、と
真剣に思ったのを覚えています。

人ひとり、なんとか抜けられそうな穴があるだけ
まさしく、その穴から這い出たのだと母から
聞かされました。人間が出られる穴なら
小さな犬も抜けられるだろうと思っていました。

後日、意を決した兄が中に入って
死んでるチャチャを見つけるまでは。

実家は自衛隊の方々が瓦礫処理にあたって
くださり、とても、とても丁寧に
作業をしてくださったと聞いています。
何か生活用品らしきものが出たら、
作業を止め、「探されますか?」と
声をかけてくださいながら、ゆっくりと
作業を進めてくださったのだと。
そんなに丁寧に気を配って頂いたにも
かかわらず、子どもの生まれた証は
なにひとつ拾えなかったということに
気づいたのは、もうずっとあとになってから。

母子手帳
へその緒も
出産直後の記念写真も
手形足形も

自分が瓦礫処理に立ち会えなかったのは
諸事情あって、仕方なかった…

当時、離婚に向けて別居を始めたばかりで
書類上は、まだ婚姻関係にあったことで
実際に家を失ったのが自分と子どもだったにも
かかわらず、当時の夫がなんら被害に
あってないにもかかわらず、
罹災証明が世帯主宛にしか発行されないと
いうルールに邪魔され、被災したという
事実さえ、なくなってしまいそうな状況で…

突然の大地震で家を失ったのは、自分だ!と
確固たる事実を粘り強く切々と区役所の
担当者に訴え、とりあえず、訴えてる内容に
嘘偽りがないと一筆いれることで
なんとか、自分宛に罹災証明を出してもらえた。
これが、あとあといろんな場面で役立ちました。
仮設住宅の申込みしかり、
保育園の入園手続きしかり。

自分は、罹災証明を出してもらえたけど
きっと、諦めた人もいたんじゃないかな…と。
本来なら救済を受けて然るべき人たちであっても
規則の網からこぼれてしまった人たち、
いるんじゃないのかな?!

規則って、もちろん大事。
でも、非常事態のときは、もっと柔軟に
本当に救われるべき人たちに
手を差し伸べてほしいなぁ、と
これは災害時だけではなく、思います。

阪神淡路大震災の報道
今年は結構見ています。
これまでは、ちゃんと見られなかった。
当時、懸命に踏ん張ってきた方々の
インタビューを聞いていると、
やっぱり涙がこぼれます。

自分が住んでいた場所が焼け野原になって
焼け残った木材の切れっ端の墓標が
あちこちに立てられている光景は、
今も忘れることはできません。

震災のその日のことは、意外とはっきり
覚えているのですが、その後のことは
断片的にしか思い出せないのです。

切れ切れの記憶を綴るのは難しく
実際に体験していても、
そのなまの体験を正確に伝えるのは
並大抵のことではないと思います。

不思議なエピソードをひとつ
これは、母が崩れ落ちた家の中に
まだいるときの話です。

このまんま中にいるのが安全じゃ?!と
父と言葉を交わしていたとき、家の外から
まるで懐中電灯で照らされたような明かりが見え
それと同時にガスの臭いが立ち込めてきたため
その明かりを頼りに人ひとり通れた穴を
抜け出すと、外にひとりの若い女性がいて
その女性に手を引かれて避難したのだそう。

でも、小学校に避難したときには
その女性の姿はなく、
あとからどう考えても、その年頃の女性が
近所に住んでいた記憶もなく、
いったい、あの女性はだれだったの?と。

たぶん、きっと、飼い犬のチャチャ。
お別れを言う代わりに、
救いの手を差し伸べてくれたのだと、
自分たち家族は信じています。

被災者の傷はいえることはないでしょう。
それでも、みんな一歩一歩
前に前に進んでいくのでしょう、きっと。